『吉兆味ばなし』に、ごはんの話がある(旧版p.200):
ご家庭のごはんは、だいたいかたいようですが、これはお子たち本意だからでしょう。ごはんは食事の土台ですから、あまりかたいごはんより、かたすぎず、やわらかすぎず、まちがったら、やわらかい方がいいと私は思います。(中略)
お茶料理のごはんは、熱つ熱つのびちゃ飯に魅力があるのです。湯気のたつような熱つ熱つだったら、やわらかいご飯がよろしい。熱いあいだに食べるやわらかいごはんのうまみは、お米さえわるくなかったら、お菜がなくてもお漬ものだけでも、堪能(たんのう)するほどおいしいものです。
湯木貞一はごはん柔らか目が推しのようだ。
しかし私の見解は、やや異なる。
私の実家は、自分の子供の頃は農家からいただいたお米を食べていた。さぞや美味しいお米だったっだろうと思われるかも知れないが、それは事実と異なる。
実際のところ農家は、出荷するための米と自家用の米とは別々に作るものなのである。出荷用は、おいしいお米。自家用は、収量が多いのが取り柄で味は良くないもの。ウチがいただいていたお米は後者だったのだ。
ウチでお米はベチャベチャに炊く。
小学校の家庭科で、お米を炊く水加減を習う。その水加減でもって、農家からいただいたお米をウチで炊いたらボソボソになって、とても食べられたものではなかった。
運動会でヨソんちのおにぎりをもらう、その味の何とすばらしかったことか。
そうした事情があるので、今やお米はスーパーでそこそこのお値段(といっても下から二番目ぐらいの水準のもの)を買うけれども、水加減はベチャベチャ。
湯木貞一が柔らか目を推すのは、関西の「始末」つまり倹約精神ではないかと思う。
たとえ米を扱う商家であっても、倹約のために米は安いのを買う、そうした米はベチャベチャでないと味にならないから、べちゃメシになる…そういうことではないかと思うのだ。