銭湯:シャワーとテレビ

お題「銭湯の思い出・・・」

 

 思い出も何も…むかし実家には風呂がなかったから。物心ついて小学校2年生までは銭湯だった。小2のとき親が家に風呂場を作ったので、そこから内風呂になった。混浴禁止年齢は都道府県によって異なり、私の故郷では8歳以上が禁止。親が内風呂を作ったのも、そうした事情への配慮だろう。

 

 昭和後期のイナカの銭湯になかったのはシャワー、あったのはテレビ。シャワーがないので、湯舟から桶でお湯を汲んで使う訳ね。

 若い人たちがクルマで遠出して、秘湯に入ったなんて言う場合「シャワーあった?」と聞く。私に言わせれば、シャワーのある風呂は秘湯とは言わない。

 当時の銭湯では脱衣場の男湯と女湯の仕切りの、番台の反対側にテレビが置かれていた。これは昭和30年代にテレビというメディア・デバイスのプロモーションとして、店や施設からすれば客寄せとして、テレビが置かれていたのだ。今でもスーパー銭湯の休憩スペースにテレビが置かれていることがあるけど、これはそうした昭和時代のプロモーション客寄せの名残りであって。令和の世のスーパー銭湯のテレビには特に意味がない。

 

 昭和末年に上京して、風呂ナシ物件だったけど、住んでたエリアに銭湯はそれなりに多かった。そのエリアをいま調べてみると、銭湯は1軒しかない。いつも行く銭湯は決まっていて(もちろん今はもうない)、休みだったら別の銭湯という具合。この時期そのエリアの銭湯にテレビはすでになかった。でもシャワーはあった。

 その界隈の銭湯には謎ルールがあった。腰掛は長方形で、形としては足の付いたまな板。それがシャワーのところに置かれっぱなしなんだけど、上がるときには縦方向にするという暗黙のルールがあった。なんでそういうルールがあるのか疑問だったけど、みんなそうしてるから、そのようにしていた。

 あるとき、疑問が氷解。目の不自由な人が入ってきて、ひとつひとつ腰掛を触る。そして、腰掛が縦方向になってるのを確認すると、それを横にして腰かけた。つまり縦方向の腰掛は、ここ空いてますということを示すためだったのだ。

 東京は冷たいのなんのかのイナカモンは言いがちだけど、こうしたクールな思いやりこそが東京の本質なのね。

 

 昭和最後の春にヨソへ移住して、それ以降は出張なんかでタマに東京へ出かけるのだけど、そうした東京的なクールな思いやりというのが薄れてきているように思う。つまり、東京一極集中なんていうけど、昭和時代いっぱいまで東京は東日本ローカルの都会だった。それがバブル平成になって西日本からも大挙して移民がやってきて、西日本ルールを押し通すようになってしまったみたい。

 ソバなんか最たるもので、平成中期以降ツユが妙に甘ったるくなった。あんな甘ったるいツユでは「たぬきそば」が味として成立しない。まったく残念だよ。

 

 さて平成になって、実家から片道10kmほどのところにある公設の温泉の銭湯に通うようになった。天然かけ流し温泉だけど、温度がやや低いため重油ボイラーで加温。公定価格の約半額で、帰省したらほぼ毎日行くので回数券を買って使う。シャワーはある。

 テレビはないけど、かつてテレビを置いていたであろう、なにも置かれていない台だけが残っている。若い人はそんな台がなぜそこにあるのか分からないだろう。