観念の遊びはいらない ― イデオロギー政治の終わり

 令和元年、2019年夏の参議院選挙、与党は議席の三分の二の獲得には至らなかったが、過半数は確保した。安倍晋三首相は改憲したかったようだが、ちょっと難しくなった。次の衆院選議席の三分の二を獲得すれば可能だろうけれども、あいにく公明党池田大作原理主義者は改憲反対だから、どうなるか分からない。改憲は問題じゃない。

 

今般の選挙では実に興味深い現象が見られた。

 

まず比例代表での無党派層の投票行動。

www.asahi.com無党派層比例区の投票先は分散 朝日出口調査 - 2019参議院選挙(参院選):朝日新聞デジタル

https://web.archive.org/web/20190722133101/https://www.asahi.com/articles/ASM7M63N3M7MUZPS00D.html (web.archive.org)

 

若年層ほど自民党への投票率が高かったというのだ。

 

その二。投票率が非常に低かったのだけど、

www.asahi.com「自分の未来は自分で守る」 参院選、半数超が投票せず - 2019参議院選挙(参院選):朝日新聞デジタル

https://web.archive.org/web/20190722063622/https://www.asahi.com/articles/ASM7Q3D7ZM7QUTIL00S.html (web.archive.org)

 

街頭の声は

 政権に不満はあるものの、野党に投票する気も起きなかった。「批判ばかりで具体的な政策が見えない」とあきらめ顔で話した。

 

「時期が来たから選挙をしたというだけで、何のための選挙か分からなかった」。障害者や生活困窮者など社会的弱者を支える視点が政治に欠けていると思う。「憲法改正などより、もっと低い目線を持ってほしい」

  まとめると、具体的な政策を提示できない政党には投票しないということだ。

 

 ずいぶん古い人だが、旧・社会党江田三郎という人がいた。どうやら現実的な人で、1962年に「江田ビジョン」を公表したら党内でフルボッコになって冷や飯くった人のようだ。ざっくり見たら江田ビジョンは「現実的な理想」を掲げたものだったようだけど、それでも叩かれた。

 

新しい政治をめざして―私の信条と心情

新しい政治をめざして―私の信条と心情

 

 

 この本の全文がウェブにある。私が見て、なるほどと思ったところを挙げる:

 私にとって、社会主義はご神符ではない。社会主義運動とは、人間優先の理念にたって、現実の不合理・不公正の一つ一つをたたき直してゆく、終着駅のない運動のトータルなのであり、そのことを国民の同意のもとに行おうというのであり、右だ左だというのはつまらない観念の遊びであり、大切なことは、現実の改革に有効なのか否かである。 

新しい政治をめざして/社会主義神話の崩壊と社会民主主義の再生 より)

  現実の改革に有効か否かというのがポイント。

 

 ドラッカーという人は経営学者ということになっているが、本人としては政治学者のつもりだったし、博士の学位も政治学。どの本だったか忘れたが、真の保守とは現実に対する適切な対処のことだと。

 

 結局のところ大衆にとっては現状の暮らしと未来の年金が問題なのであって、改憲はそれほど問題ではない。

 改憲を論じるのであれば、現行の日本国憲法が国際社会の中で日本が求められている立ち位置に合致しているか否か、合致していないのであればどのように変えなければならないかという点を論じるのが妥当である。

 

 日本国憲法第9条の墨守は、江田三郎が言った「ご神符」そのものである。

 実際問題として立憲民主党の枝野さんは結党直後に

www.sankei.com立憲民主・枝野幸男代表 憲法改正の国会発議「全会一致になる努力を」 - 産経ニュース (web.archive.org)

「われわれは護憲ではない。良い改正ならば賛成、改悪は徹底的に反対する」と強調した。

と言った。しごく当然のことだ。

 

 しかしそれが今回の参院選では伝わらずに大した争点とはならず、野党各党は現実問題に対する具体的な政策を提示できず、大した議席は獲得できなかった。

 

 結局のところ、昭和時代の左翼政党の流れを汲む現在の野党、および日本共産党は、いまだ「つまらない観念の遊び」の議論に終始していて、現実問題に対する具体的な政策を提示しない。だから票に結びつかない。それだけのことだ。

 旧・民主党は与党となったことがあるのだから、政策を立案するということがどういうものであるか、かつて民主党だった人は分かって当然である。しかし、それができない。

 

 イデオロギー政治は昭和の終わりに終わりがはじまり、平成いっぱいで完全に終わったと言って良い。だから令和の世にもなってイデオロギーをご神符としてつまらない観念をもてあそぶのは、頭が悪いか脳の老化であるかのいずれかである。

  現実問題をどうするかという政策を提示できない政党は、令和時代においては、もはや政党とは呼べない。

 

  ついでながら世間でネトウヨだのパヨクだのと言う。これらも言ってみればつまらない観念の遊びに過ぎないのであって、いちいち相手にするだけ労力のムダというものだ。

 

 観念をもてあそぶ連中は、現実を直視しない。現実を直視しないから観念をもてあそべると言うべきか、あるいは現実から逃れたいがために観念の遊びへ走るのか。なんにせよ彼らの言葉はリアリティに欠ける。さらに踏み込んで言えば、当事者意識に欠ける。当事者意識がないものだから、愚にもつかないことをどのようにでも言える。なんとも能天気なことである。

 香港の若い人たちを見なさいよ。彼ら彼女らは、自分の国の未来を真剣に憂えているのだよ。まごうことなき当事者なのだ。