非常にマジメな記事である。
しかし、最後のコメントはなんだ?
筆者は幸いにも日常的にハイヒールで踏まれるという災難には遭っていないが、今後この技術の開発が進展すれば、能動的にハイヒールで踏まれる人にも最適なウェアラブルデバイスやセンサーデバイスなどが登場するだろう。
能動的にハイヒールで踏まれる人にも最適な
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能動的にハイヒールで踏まれる人にも最適な
非常にマジメな記事である。
しかし、最後のコメントはなんだ?
筆者は幸いにも日常的にハイヒールで踏まれるという災難には遭っていないが、今後この技術の開発が進展すれば、能動的にハイヒールで踏まれる人にも最適なウェアラブルデバイスやセンサーデバイスなどが登場するだろう。
能動的にハイヒールで踏まれる人にも最適な
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能動的にハイヒールで踏まれる人にも最適な
わたしゃノンポリですから。
自民の某議員がSEALDsを「利己的」と批判してバッシング食らった。
そのSEALDsに触発されて、じーさんがOLDsを結成した。
なんだかなあ…
昭和30年代生まれの人達は全共闘世代を
クチばっか
と嗤う。
これは、ある程度は的を射ている。
全共闘世代 ≈ 団塊世代は理想論だけで動きがちで、その理想論でもって動いた結果でマトモなもの、あんまりない。
ゆとり教育なんて、団塊世代がこしらえた「政策」の最たるもので…個人的には子どもをスポイルするだけ、主体的に動くチカラを育んでおらず、失敗だったと思う。
全共闘世代の共感を呼び起こすSEALDsは、まあ、そうしたクチだ。共感する方もアレであって。
わたしゃ知らん。ノンポリですから。
話は変わって…安保法案に反対する勢力に中国人が混ざっているのではないか?との巷説。
そりゃあ、かなり混ざっているだろう。なんでも中国には、戦争中の日本の国家総動員法に相当する法律があり、これは平時にも適用され、在外中国人にも適用されるとのこと。中国人が混ざっていても何ら不思議ではない。
ありゃあ、ひどかった。Wikipedia にはバッチリ書かれているけれども、当時リアルタイムで報道したマスメディアはごく少数。
私が見たのは福岡の九州朝日放送による九州ローカル深夜番組「ドォーモ」の密着ドキュメントがYouTube か何かにアップされてたもの。独立巨大掲示板でマスゴミと言われる所以を実感した「事件」だったよ。
要するにチベット独立問題で悶着あって、中国共産党が中国人留学生を動員してチベット独立支援派の抗議活動を封じようとして、メチャクチャだったんだ。でもマスメディアは沈黙。九州ローカルの深夜番組で報道されたのがせいぜい。
詳細は上掲 Wikipedia の「2.1.18 日本」の項を見てくれい。
さてさて、
なるほど日帝という単語は、巨大掲示板で言われる「特亜」、具体的には中華人民共和国・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国で頻用されるものであり、日本で一般的とは言いがたい。
それでは日本のサヨクで「日帝」という用例はあるのか?と、ざっくり調べてみた。
サヨクと言うけど、細かく言えば共産党・社会党などの既存の左翼政党に対抗する諸勢力を「新左翼」と呼ぶのであり、ただいま公安はその多くを「極左暴力集団」と呼んでいる。リアルタイムでもゲバゲバだったからねえ。
ゲバとはドイツ語の Gewalt (暴力)であり、サヨク用語としては武力闘争を指すのだけれども、対立するセクト間、ないしセクト内(これを内ゲバと呼ぶ)で行使されるのが実態だった。テレビ番組の名前にも使われたし(巨泉×前武ゲバゲバ90分!)、左卜全とひまわりキティーズ『老人と子供のポルカ』では「やめてけ~れゲバゲバ」なんて歌われたもんだ。
そうした連中の帝国主義が何を指していたか調べたら、要するに「米帝」だ。ほとんどのサヨクがいう帝国主義とはアメリカのことであり、グローバリゼーションや新自由主義もアメリカ帝国主義であって、日本はアメリカ帝国主義の手先と規定している。ほとんどのサヨクは。
ただし、確かに「日帝」という言葉を使う勢力は、少ないながら存在する。
いわゆる「赤軍」だ。
よど号ハイジャック、あさま山荘事件、三菱重工爆破事件、そうした過激な一連のテロ事件を起こした連中が「日帝」を使っていた。
そうしたテロ事件の実行犯たちは、死んだか、服役中であるか、逃亡中であるか、まあいろいろ。こうしたデモに参加するどころではない。
一連のテロ事件で組織は四散したものの、それでも一部はまだまだ「健在」で活動中とのこと。
画像をよくよく見れば、お年を召した方々であり、お達者クラブの様相を呈している。これは中国人じゃなくて、赤軍関連の人達だねえ。
関西人がカレーにソースをかける件について。
カレーにソースをかけるなんて風習は、関西に引っ越してから知った。関西に住むまで、カレーにソースをかけるなんて発想は持っていなかった。
それでもソースをかけていいカレーは、CoCo壱番屋と、大学の学食の安かろうマズかろうカレーに限られると思う。
そもそもカレーにソースをかけるという行為は、2つの側面から、大変「失礼」だと思う。
まず、作る人の問題。ソースをかけなければ食えないようなカレーを作ってヒトサマに供するのは、大変失礼だと思う。
また食べる側も問題だ。カレーにソースをかけるというのは、お前が作ったカレーはソースかけなきゃ食えねえと意思表示するも同然であり、礼を失している。
それでも関西人はカレーにソースをかける。
職場で毎年春先に研修がある。場所は毎年おなじところで1泊2日。そして2日目の昼食は決まってカレーだ。インスタントのルーを使ってない、昔の家庭的な、いわゆるライスカレー。
生粋の大阪人かどうかは知らないが、生まれ育ちが桃谷へんの上司は、必ずソースを要求する。
このときの料理人の対応は年ごとに違う。断固としてノーを言うこともあれば、あのプラスチック製のソースのボトルを持ってくることもあれば、刺身用の醤油皿に少量のソースを入れて出すこともある。
日本のソースはイギリスのウスターソースがモデルであって、モノの本によればリーペリン (Lea & Perrins) とマキノコが元になっているという…リーペリンは日本でも普通に入手可能だが、マキノコは正体不明(甘口だったとか)。昔イギリスに行ったとき、スコットランド…確かインヴァネスだったと思うけど、ホテルの朝食バイキングの調味料にウスターソースのポーションがあって、使ってみたけどエラくマズかった。
日本でのウスターソースの国産化は明治中期であって、いわゆる日本的「洋食」の普及と同時進行で発展していった訳だけれども、なんでまた関西人は、あそこまでソースを偏愛するのだろうか。
「大阪の食いモンはうまいでぇ」というのが大阪人の常套句なのだけれども、私に言わせればそれはウソだ。確かに大阪でなければダメという食べ物は存在する。代表例は、だし巻卵。東京や名古屋のは甘ったるくてダメだ。だし巻に限っては大阪に限る。
※追記(2016年1月)久々に大阪に行って、昼どき食欲あんまりなくて、蒸し寿司でも食うかと心斎橋の本福寿司に行ったら、閉店してた(号泣)スマホで調べたら福島に蒸し寿司やってる店を見つけたけど、スケジュールが少しキツかったので涙をのんだ…
が、一部の例外を除けば大したことがない…ろくでもないものの方が圧倒的に多い。彼らの言うウマいもんというのは大概はソース味のコナモンである。小麦粉、油、そしてソースだ。これに銀シャリが加わったモノが、大阪人の言うウマいもんである。
関西に引っ越して驚愕したのは紅生姜の天ぷらである。なんでこんなもんがスーパーの惣菜コーナーに堂々と並んでいるのか、まったく解釈不能だった。最近イオンが全国的に売っているようだが、私は断固として買わない。そもそもイオンの惣菜は嫌いだ。
紅生姜を油で揚げるのは湯木貞一『吉兆味ばなし』に登場する。天ぷらの揚げ油が酸化して臭みが出たとき、紅生姜を投入して臭いを消す話がある。江戸時代の天ぷらは屋台の串揚げであって、現在の形の天ぷらは幕末から明治時代に登場した、比較的に新しい料理である。料理屋が油の臭み消しに紅生姜という小ワザは、まさしく湯木貞一の時代に関西で発生したのだと思う。
これが時代が下って、大正時代に大阪で公設市場なんてのができて、その中の総菜屋で揚げ物を作る、揚げ油が酸化して臭う、紅生姜を投入…これ、売れへんか?という文脈で登場したのだと私は勝手に想像している。当たらずとも遠からずだと思うが。
戦後、西日本一円の農村地帯から大阪へ労働力として若者が流入。当時の農村なんて貧しいもんで、銀シャリ自体がゴチソウだった訳だ。それにコナモンとアブラとソースが加われば四暗刻。結局「大阪人」の言うウマいもんは、昭和30年代あたりの貧しい農村の味覚に過ぎない。
そんなだから、大阪の食いモンはウマいでぇと言う「大阪人」とやらに、「はもきゅう」は好きかと問うても無駄だろう。はもきゅうとは、魚のハモの皮を焼いて細かく刻んだのが入ったキュウリの酢の物であり、昔ながらの大阪の夏の夕食のひと品だが、そういう人たちそもそも、はもきゅうを知らない。
その手の大阪人とやらは、ドンブリ飯に紅生姜の天ぷらのせてオリバーどろソースぶっかけて食ってりゃいいのだ。
それにしても、なんば自由軒の名物カレーにだぼだぼソースかける奴を見ると殺意を覚える。
そういう輩の首ねっこ捕まえて阪急電車で十三駅まで行って、ホームのソバ屋でポテそば頼んで(かけそばとフライドポテトが別盛りで出てくる)、ポテトをソバの上にドサリと乗せて、その上からダボダボとソースをぶっかけて食わせてみたいものである。
以前のエントリ
べく・べから・べく・べかり・べし・べし・べき・べかる・べけれ・べかれ
について、訂正というか追記というか、そういう話です。
某SNSでの友人の友人が、非常に興味深い指摘をしていた。
いわく、公立小中高校の教員には残業手当などがなく、その代わりとして給与に一律4%の上乗せがあるだけだという。
法令をあたったら、
通称「給特法」なんてのがあって、いわく:
(教育職員の教職調整額の支給等)
第三条 教育職員(校長、副校長及び教頭を除く。以下この条において同じ。)には、その者の給料月額の百分の四に相当する額を基準として、条例で定めるところにより、教職調整額を支給しなければならない。
2 教育職員については、時間外勤務手当及び休日勤務手当は、支給しない。
教員は教育という職務の他に課外活動の指導やら引率やらがあって、残業代やら休日出勤手当やらを算定するのが難しいからだという。
しかしこれは勤務実体と著しくかけ離れており、ブラック企業そのものである、この条項を撤廃し、労働基準法を準用すべきだ、というのが某SNSでの友人の友人の主張。
なるほど。首肯するに足る。
したがって尾木ママの言ったことは、まったく的外れではない…少なくともカスってはいる。
ある種、片務的?であることは確かだ。
労基は民間の学習塾をブラックだと、しばしば摘発する。しかしこれが公立義務教育だとなんら違法ではなく、労基の出る幕じゃない。
これは教員としても、やっとれんわな。
何よりまず、子どもの方が気の毒だ。働いても働いても報われないセンセイの姿を見て育つってのが、何とも…
片や教育者を目指す若い人から見ても、民間の教育産業だったら組合をとおして労基法違反で告発できるけど、公立じゃあどうにもならない。誰も教員になりたがらないですよ。
こういう負のスパイラルがあるのだから、これはどうにかしなければなるまい…じゃあ財源は?って話があるか。公立学校でも非常勤比率がめちゃくちゃ上がってるからねえ。
もっとも少子化のご時世、子どもの数は長期的に減る、だから新規採用は抑えなければならない、けれども少子というのはひどく偏りがあって、特定のごく一部の地域に限って子どもが異常に多いという状況もあったりする。だから雇用者としても、雇用政策については神経質にならざるを得ず、かなり微妙なのは確かだ…
昨年亡くなった某伯父(伯父が複数いるので)は組合活動にうつつを抜かすヤサグレ高校教諭だったけど、いま現役だったら、どうしただろうか?
伯父の現役時代の教職員組合ってば「管理教育反対」であって。当時は出勤簿にハンコつくのでさえ大問題で…というか、今でもタブーなところがあって。
数年前、専門学校の夜間部に通ったことがあるけど、もともとサヨク色の濃い学校法人で、新米校長(当時)がタイムカードの導入に手を焼いたとグチってたっけ。専門学校ですら、タイムカードを導入しにくいという空気があるのだ。
いわんや公立小中高においておや。教職員組合の体質も、おそらく伯父の現役時代とさして変わっていないだろう。
既得権益を守る代わりに、個々の教員の労働者としての当然の権利に目は向かないのかも知れない。
これはもう、若い教員が、労働者としての当然の権利を主張する新しい労働組合を作るしか、方法はないだろう。
@KazuhiroSoda 城山三郎風に言えば「嫌中にして嫌韓だが保守でも愛国でもない」か。
— 南青山(「沈黙はファシズムの承認」) (@minami_aoyama) 2015, 7月 28
ネトウヨの定義だけど。
確かにそうだろうけれども、これで愛国まで持ち出された日にゃあ、たまらんぜ。
アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』での愛国心の定義。
英語は著作権が切れてるから、そのまま転載:
Combustible rubbish ready to the torch of any one ambitious to illuminate his name.
In Dr. Johnson's famous dictionary patriotism is defined as the last resort of a scoundrel. With all due respect to an enlightened but inferior lexicographer I beg to submit that it is the first.
わたくしなりに翻訳すると:
野心を持つ者が自分の名を輝かせるためのタイマツにうってつけの、燃やせるゴミクズ。
ジョンソン博士の有名な辞書で愛国心は、ならず者の最後の拠りどころと定義されている。教えを受けながら恐縮であるが、未熟者の辞書編纂者としては、最初の拠りどころと申し上げたい。
ずいぶん回りくどく丁寧な言い回しで分かりにくいが、要するにビアスは愛国心を、
ならず者の最初の拠りどころ
と定義しているのだ。
ったく愛国まで持ち出されちゃあ、たまったもんじゃないぜ。
聖書の中で神は少なくとも200万人を殺しているが、悪魔が殺したのはせいぜい10人という話。
これも正統的なクリスチャンからすれば、解釈が強引で、そもそも神学が分かってないとの批判があるけど、こっちは日本の仏教徒だから、そんなの関係ねぇ。
私としては、それほどに「真の悪」というものが極めて少ないのだと解釈する。
Scott Peck という人が言った話。人間は時として悪というものが存在しないかのように思い込んで、性善説で動きがちだけれども、ゼロではなく、真の悪はごくごく少ないけれども、厳然として存在するのだという。
M. Scott Peck (1978), The Road Less Travelled (25th anniversary ed., 2003), Rider & Co, pp. 266-267.
親鸞の悪人正機説も、真の悪人を指しているようには思えない…だって阿弥陀様に救われる余地があるんだもの。
ざっくり親鸞の説を調べたけれども、五逆だの誹謗正法だの、あるいは十悪なんてのがある。でも誹謗正法はともかく、五逆・十悪は日常茶飯で、マスメディアの報道でも珍しくも何ともない。
けっきょく真の悪というのは、社会的な関わりの中で決定づけられるように思われる。Zという人物が社会の中でどうにもこうにもならない存在で、宗教でも心理学でも精神医学でも法律でも手に負えない…こういう場合、Zは真の悪人ということになるだろう。
誹謗正法も、おそらく社会的な関わりの中で正しい/正しくないが決まるんだと思う。織田信長の時代に「安土宗論」という事件があって…安土城下で浄土宗の僧侶が辻説法してるところに法華宗の人がケンカ吹っかけた。信長としては穏便に済ませるよう申し渡した(信長自身は無神仏論者で、表向きは法華。家臣に法華が多い)けれども、法華は引っ込まず、仕方がないから公開討論会。結果は法華の負けで、ケンカ吹っかけた2人は斬首。これ浄土が負けてたとしたら、信長は浄土側のクビを切ってたと思う。
「度(ど)しがたい」という言葉があるけれども、これは仏教語で、仏様が救おうにも救いようがないという意味だ。宗教が救済のすべてだった時代はすでに遠く、社会や自然科学とのミックスで救済する時代だけれども、それらすべての観点から度しがたい人間は、極めて少ないけれども、確かに存在する。
こういう場合は、ありとあらゆる理論と手段を用いて社会から排除しなければならない。
Douglas McGregor が人間の動機づけでX理論 vs Y理論なんて言ったけれども、X理論でもY理論でもどうにもならない真の悪人については、これを徹底的に排除しなければなるまい。あえて言えばZ理論ということになろうか。
公教育は国策である。
国民が産業の労働力ないし軍事力として使いモノになるように、一定の知的水準を与えることが目的である。
その国策たる公教育が目標とする「産業の労働力ないし軍事力」と、現実の国内外の社会・産業・政治の情勢との間に乖離があったとしたら、どうなるだろう?
そのような場合、公教育は役立たずということになる。
公教育は国策であるからして、成果の目標を策定して定める。
そして、「かくあるべし」という公教育のあり方が定まる。
その「かくあるべし」が現実と乖離するとき、子どもは、教員は、「かくあるべし」と現実との両者によるダブル・バインドに苦しめられることになる…というか、ただいまそのダブル・バインドが絶賛発生中なんだよな。
さて、冒頭の記事。尾木ママが言ってますねえ。
一方で「どんな親や子どもにも、きちんと対応していくのが公立学校だ。教員は部活などに費やす時間が長すぎて、保護者と十分なコミュニケーションをとって信頼関係を築けていない」と指摘。「十分な対応ができるようにするためには、働き方も見直すべきだ」としています。
教員の働き方/働かせ方の問題じゃないっつーの。
だから、教育の「かくあるべし」論は大嫌いだ。