カレーにソースをかける等の随想

 餃子の王将(京都)で天津飯を食いながら、なぜか思った。

 

 関西人がカレーにソースをかける件について。

 

 カレーにソースをかけるなんて風習は、関西に引っ越してから知った。関西に住むまで、カレーにソースをかけるなんて発想は持っていなかった。

  それでもソースをかけていいカレーは、CoCo壱番屋と、大学の学食の安かろうマズかろうカレーに限られると思う。

 

 そもそもカレーにソースをかけるという行為は、2つの側面から、大変「失礼」だと思う。

 

 まず、作る人の問題。ソースをかけなければ食えないようなカレーを作ってヒトサマに供するのは、大変失礼だと思う。

  また食べる側も問題だ。カレーにソースをかけるというのは、お前が作ったカレーはソースかけなきゃ食えねえと意思表示するも同然であり、礼を失している。

 

それでも関西人はカレーにソースをかける。

 

 職場で毎年春先に研修がある。場所は毎年おなじところで1泊2日。そして2日目の昼食は決まってカレーだ。インスタントのルーを使ってない、昔の家庭的な、いわゆるライスカレー

  生粋の大阪人かどうかは知らないが、生まれ育ちが桃谷へんの上司は、必ずソースを要求する。

  このときの料理人の対応は年ごとに違う。断固としてノーを言うこともあれば、あのプラスチック製のソースのボトルを持ってくることもあれば、刺身用の醤油皿に少量のソースを入れて出すこともある。

  

 日本のソースはイギリスのウスターソースがモデルであって、モノの本によればリーペリン (Lea & Perrins) とマキノコが元になっているという…リーペリンは日本でも普通に入手可能だが、マキノコは正体不明(甘口だったとか)。昔イギリスに行ったとき、スコットランド…確かインヴァネスだったと思うけど、ホテルの朝食バイキングの調味料にウスターソースポーションがあって、使ってみたけどエラくマズかった。

  日本でのウスターソース国産化は明治中期であって、いわゆる日本的「洋食」の普及と同時進行で発展していった訳だけれども、なんでまた関西人は、あそこまでソースを偏愛するのだろうか。

  

 「大阪の食いモンはうまいでぇ」というのが大阪人の常套句なのだけれども、私に言わせればそれはウソだ。確かに大阪でなければダメという食べ物は存在する。代表例は、だし巻卵。東京や名古屋のは甘ったるくてダメだ。だし巻に限っては大阪に限る。

 

※追記(2016年1月)久々に大阪に行って、昼どき食欲あんまりなくて、蒸し寿司でも食うかと心斎橋の本福寿司に行ったら、閉店してた(号泣)スマホで調べたら福島に蒸し寿司やってる店を見つけたけど、スケジュールが少しキツかったので涙をのんだ… 

 

 が、一部の例外を除けば大したことがない…ろくでもないものの方が圧倒的に多い。彼らの言うウマいもんというのは大概はソース味のコナモンである。小麦粉、油、そしてソースだ。これに銀シャリが加わったモノが、大阪人の言うウマいもんである。

 

 関西に引っ越して驚愕したのは紅生姜の天ぷらである。なんでこんなもんがスーパーの惣菜コーナーに堂々と並んでいるのか、まったく解釈不能だった。最近イオンが全国的に売っているようだが、私は断固として買わない。そもそもイオンの惣菜は嫌いだ。

  紅生姜を油で揚げるのは湯木貞一『吉兆味ばなし』に登場する。天ぷらの揚げ油が酸化して臭みが出たとき、紅生姜を投入して臭いを消す話がある。江戸時代の天ぷらは屋台の串揚げであって、現在の形の天ぷらは幕末から明治時代に登場した、比較的に新しい料理である。料理屋が油の臭み消しに紅生姜という小ワザは、まさしく湯木貞一の時代に関西で発生したのだと思う。

  これが時代が下って、大正時代に大阪で公設市場なんてのができて、その中の総菜屋で揚げ物を作る、揚げ油が酸化して臭う、紅生姜を投入…これ、売れへんか?という文脈で登場したのだと私は勝手に想像している。当たらずとも遠からずだと思うが。

  

 戦後、西日本一円の農村地帯から大阪へ労働力として若者が流入。当時の農村なんて貧しいもんで、銀シャリ自体がゴチソウだった訳だ。それにコナモンとアブラとソースが加われば四暗刻。結局「大阪人」の言うウマいもんは、昭和30年代あたりの貧しい農村の味覚に過ぎない。

 

 そんなだから、大阪の食いモンはウマいでぇと言う「大阪人」とやらに、「はもきゅう」は好きかと問うても無駄だろう。はもきゅうとは、魚のハモの皮を焼いて細かく刻んだのが入ったキュウリの酢の物であり、昔ながらの大阪の夏の夕食のひと品だが、そういう人たちそもそも、はもきゅうを知らない。

 その手の大阪人とやらは、ドンブリ飯に紅生姜の天ぷらのせてオリバーどろソースぶっかけて食ってりゃいいのだ。

  

 それにしても、なんば自由軒の名物カレーにだぼだぼソースかける奴を見ると殺意を覚える。

  そういう輩の首ねっこ捕まえて阪急電車で十三駅まで行って、ホームのソバ屋でポテそば頼んで(かけそばとフライドポテトが別盛りで出てくる)、ポテトをソバの上にドサリと乗せて、その上からダボダボとソースをぶっかけて食わせてみたいものである。

 

「かくあるべし」論の訂正&追記

以前のエントリ

べく・べから・べく・べかり・べし・べし・べき・べかる・べけれ・べかれ

について、訂正というか追記というか、そういう話です。

 

SNSでの友人の友人が、非常に興味深い指摘をしていた。

 

いわく、公立小中高校の教員には残業手当などがなく、その代わりとして給与に一律4%の上乗せがあるだけだという。

 

法令をあたったら、

公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法

通称「給特法」なんてのがあって、いわく:

 

(教育職員の教職調整額の支給等)
第三条  教育職員(校長、副校長及び教頭を除く。以下この条において同じ。)には、その者の給料月額の百分の四に相当する額を基準として、条例で定めるところにより、教職調整額を支給しなければならない。
2  教育職員については、時間外勤務手当及び休日勤務手当は、支給しない。

 

教員は教育という職務の他に課外活動の指導やら引率やらがあって、残業代やら休日出勤手当やらを算定するのが難しいからだという。

 

しかしこれは勤務実体と著しくかけ離れており、ブラック企業そのものである、この条項を撤廃し、労働基準法を準用すべきだ、というのが某SNSでの友人の友人の主張。

 

なるほど。首肯するに足る。

 

したがって尾木ママの言ったことは、まったく的外れではない…少なくともカスってはいる。

 

 

ある種、片務的?であることは確かだ。

 

労基は民間の学習塾をブラックだと、しばしば摘発する。しかしこれが公立義務教育だとなんら違法ではなく、労基の出る幕じゃない。

 

これは教員としても、やっとれんわな。

 

 

何よりまず、子どもの方が気の毒だ。働いても働いても報われないセンセイの姿を見て育つってのが、何とも…

 

片や教育者を目指す若い人から見ても、民間の教育産業だったら組合をとおして労基法違反で告発できるけど、公立じゃあどうにもならない。誰も教員になりたがらないですよ。

 

こういう負のスパイラルがあるのだから、これはどうにかしなければなるまい…じゃあ財源は?って話があるか。公立学校でも非常勤比率がめちゃくちゃ上がってるからねえ。

 

もっとも少子化のご時世、子どもの数は長期的に減る、だから新規採用は抑えなければならない、けれども少子というのはひどく偏りがあって、特定のごく一部の地域に限って子どもが異常に多いという状況もあったりする。だから雇用者としても、雇用政策については神経質にならざるを得ず、かなり微妙なのは確かだ…

 

 

昨年亡くなった某伯父(伯父が複数いるので)は組合活動にうつつを抜かすヤサグレ高校教諭だったけど、いま現役だったら、どうしただろうか?

 

伯父の現役時代の教職員組合ってば「管理教育反対」であって。当時は出勤簿にハンコつくのでさえ大問題で…というか、今でもタブーなところがあって。

 

数年前、専門学校の夜間部に通ったことがあるけど、もともとサヨク色の濃い学校法人で、新米校長(当時)がタイムカードの導入に手を焼いたとグチってたっけ。専門学校ですら、タイムカードを導入しにくいという空気があるのだ。

 

いわんや公立小中高においておや。教職員組合の体質も、おそらく伯父の現役時代とさして変わっていないだろう。

 

既得権益を守る代わりに、個々の教員の労働者としての当然の権利に目は向かないのかも知れない。

 

 

これはもう、若い教員が、労働者としての当然の権利を主張する新しい労働組合を作るしか、方法はないだろう。

 

愛国心、ですか。

 

ネトウヨの定義だけど。

 

確かにそうだろうけれども、これで愛国まで持ち出された日にゃあ、たまらんぜ。

 

 

アンブローズ・ビアス悪魔の辞典』での愛国心の定義。

 

英語は著作権が切れてるから、そのまま転載:

 

Combustible rubbish ready to the torch of any one ambitious to illuminate his name.

In Dr. Johnson's famous dictionary patriotism is defined as the last resort of a scoundrel. With all due respect to an enlightened but inferior lexicographer I beg to submit that it is the first.

 

わたくしなりに翻訳すると:

 

野心を持つ者が自分の名を輝かせるためのタイマツにうってつけの、燃やせるゴミクズ。

ジョンソン博士の有名な辞書で愛国心は、ならず者の最後の拠りどころと定義されている。教えを受けながら恐縮であるが、未熟者の辞書編纂者としては、最初の拠りどころと申し上げたい。

 

ずいぶん回りくどく丁寧な言い回しで分かりにくいが、要するにビアス愛国心を、

ならず者の最初の拠りどころ

と定義しているのだ。

 

ったく愛国まで持ち出されちゃあ、たまったもんじゃないぜ。

 

 

 

 

真の悪、あるいは、Z理論

labaq.com

 

聖書の中で神は少なくとも200万人を殺しているが、悪魔が殺したのはせいぜい10人という話。

 

これも正統的なクリスチャンからすれば、解釈が強引で、そもそも神学が分かってないとの批判があるけど、こっちは日本の仏教徒だから、そんなの関係ねぇ。

 

私としては、それほどに「真の悪」というものが極めて少ないのだと解釈する。

 

Scott Peck という人が言った話。人間は時として悪というものが存在しないかのように思い込んで、性善説で動きがちだけれども、ゼロではなく、真の悪はごくごく少ないけれども、厳然として存在するのだという。

 

M. Scott Peck (1978), The Road Less Travelled (25th anniversary ed., 2003), Rider & Co, pp. 266-267. 

 

親鸞悪人正機説も、真の悪人を指しているようには思えない…だって阿弥陀様に救われる余地があるんだもの。

 

ざっくり親鸞の説を調べたけれども、五逆だの誹謗正法だの、あるいは十悪なんてのがある。でも誹謗正法はともかく、五逆・十悪は日常茶飯で、マスメディアの報道でも珍しくも何ともない。

 

けっきょく真の悪というのは、社会的な関わりの中で決定づけられるように思われる。Zという人物が社会の中でどうにもこうにもならない存在で、宗教でも心理学でも精神医学でも法律でも手に負えない…こういう場合、Zは真の悪人ということになるだろう。

 

誹謗正法も、おそらく社会的な関わりの中で正しい/正しくないが決まるんだと思う。織田信長の時代に「安土宗論」という事件があって…安土城下で浄土宗の僧侶が辻説法してるところに法華宗の人がケンカ吹っかけた。信長としては穏便に済ませるよう申し渡した(信長自身は無神仏論者で、表向きは法華。家臣に法華が多い)けれども、法華は引っ込まず、仕方がないから公開討論会。結果は法華の負けで、ケンカ吹っかけた2人は斬首。これ浄土が負けてたとしたら、信長は浄土側のクビを切ってたと思う。

 

「度(ど)しがたい」という言葉があるけれども、これは仏教語で、仏様が救おうにも救いようがないという意味だ。宗教が救済のすべてだった時代はすでに遠く、社会や自然科学とのミックスで救済する時代だけれども、それらすべての観点から度しがたい人間は、極めて少ないけれども、確かに存在する。

 

こういう場合は、ありとあらゆる理論と手段を用いて社会から排除しなければならない。

 

Douglas McGregor が人間の動機づけでX理論 vs Y理論なんて言ったけれども、X理論でもY理論でもどうにもならない真の悪人については、これを徹底的に排除しなければなるまい。あえて言えばZ理論ということになろうか。

 

べく・べから・べく・べかり・べし・べし・べき・べかる・べけれ・べかれ

withnews.jp

 

公教育は国策である。

 

国民が産業の労働力ないし軍事力として使いモノになるように、一定の知的水準を与えることが目的である。

 

その国策たる公教育が目標とする「産業の労働力ないし軍事力」と、現実の国内外の社会・産業・政治の情勢との間に乖離があったとしたら、どうなるだろう?

 

そのような場合、公教育は役立たずということになる。

 

 

公教育は国策であるからして、成果の目標を策定して定める。

そして、「かくあるべし」という公教育のあり方が定まる。

 

その「かくあるべし」が現実と乖離するとき、子どもは、教員は、「かくあるべし」と現実との両者によるダブル・バインドに苦しめられることになる…というか、ただいまそのダブル・バインドが絶賛発生中なんだよな。

 

 

さて、冒頭の記事。尾木ママが言ってますねえ。

 

一方で「どんな親や子どもにも、きちんと対応していくのが公立学校だ。教員は部活などに費やす時間が長すぎて、保護者と十分なコミュニケーションをとって信頼関係を築けていない」と指摘。「十分な対応ができるようにするためには、働き方も見直すべきだ」としています。

 

教員の働き方/働かせ方の問題じゃないっつーの。

 

だから、教育の「かくあるべし」論は大嫌いだ。

 

情報の量と質

www.asahi.com

 

我ながら、ずいぶんマジメなエントリですw

 

 

ピアソンがフィナンシャル・タイムズを日経に売却、それに加えてエコノミストも売却という話。

 

日本国内では、どちらかといえば否定的なムード。

出版は電子の時代だし、なんでそんな古臭いオールド・メディアをわざわざ日経が大枚はたいて買うよ?みたいな。

 

でも、ねえ…堕ちたとは言え、大英帝国の歴史あるオールド・メディアだからさあ。

 

 

2013年のアルジェリアで、日本の日揮がメンテしてた天然ガスのプラントがテロ攻撃を受けた。

 

このとき日本政府の危機管理体制はインテリジェンス情報として、イギリスルートの情報を主に使ったという。

 

アメリカの情報は量こそ多いものの、質は必ずしも高くなかった。一方、イギリスの情報は量こそ少ないものの、質は極めて高かったとのこと。

 

これから敷衍すると、日経は英欧のオールド・メディアの、質の高い情報でもって、質の高いグローバル情報を握ろうとしていると解釈できる。

 

 

インテリジェンス情報は量より質。

 

旧ソ連で、ブレジネフの死去を真っ先に報じたのは共同通信。これでもって共同通信は、グローバルで通用するメディアとして認められたという経緯がある。

 

だから日経の目的は、質の高い情報の獲得と発信であると考えられる。

それはそれで強い意味があると思う。

 

ただ多分、質の高い情報をビジネスとして展開すして稼ぐビジネスモデルをどうするか?という問題が横たわる。

ブルームバーグトムソン・ロイターシュプリンガーが蹴ったというのも、すぐさま稼ぎになりにくいからだろう。

 

中期的に推移を見守らないと、成否は分からないね。

 

 

なんだよ、これ?

www.jiji.com

 

先進国であれば人種差別発言はアウトが常識だけどさ。

8年前の録音で解雇って、今更なんだよそれ?

 

スポーツ嫌いだからプロレスは良く知らんが、私がハルク・ホーガンを知っているぐらいだから、稼ぎ頭だったんだろう。

 

そいで、要らなくなったんで、口実として持ち出したんじゃないかな?