なかなか興味深い論考。
1966年の中内功によるスーパーと百貨店(デパート)の定義が面白い。
いわく、百貨店は虚構の美を売っている。
スーパーは虚構がなく、衝動性があり、大衆的で、高利益。
だからスーパーはストリップ劇場だと言ってるのね。
「裸」の値段で商品を提供するのだ、と。
んじゃあ、なんだろ?今日のスーパーとデパートの違いは?
イオンなんかに代表されるショッピング・モールなんて、虚構だよね。
つまり過去は、虚構というのはデパートの専売特許だったのが、
スーパーも虚構をやっているということ。
社会学では、磯村栄一の「第三空間論」が知られている。
都市の空間の3区分。
第一空間は、日常生活の空間。住宅地とか。
第二空間は、労働の空間。工業地域やオフィス街。
そして第三空間は、前の2つの間の「遊び」の空間。
今でもあるけど繁華街だの「夜の街」だのがあって。
ショッピングモールってのは、なーんもないところに
無理繰りで第三空間を「開発」して客を呼び込んでるように思える。
アウトレットモールなんか最たるモノだ。
そんで、ショッピングモール、アウトレットモールが提供する虚構ってのは
衝動性があって、大衆的なんだよ。
これは一体、どういうことなんだ?
夜の街に例えるならば、モールが提供している虚構というのは、
さしづめキャバクラになるのではないだろうか?
休日だからと、ノリでもって、
家族そろってキャバクラへ行くってことか?www
演劇で例えると、大衆演劇になるのかも知れない。
これを引っくり返すと、以前デパートが提供していた虚構とは
衝動性がない、特権的、ということになる。
ずいぶん「まったり」とした、長期にわたる継続的な虚構だ。
外商取引が典型か。
夜の街で例えれば、きっちりとしたジャズ・クラブになるのか?
演劇だと、宝塚だ…ってアレは阪急「百貨店」だよ。
1980年代に堤清二が西武百貨店とパルコで、あるいは丸井が、
そういう縛りをとっぱらっちゃったのかも知れない。
百貨店が提供する虚構をヅカに例えたけど、
現状のヅカはどうかといえば…
昔はヅカのナンタラ組のトップに登りつめたら10年はつとめていたもんだけど、
最近はヅカの組のトップが3年ぐらいしかもたなくなっているという。
この辺、1980年代の縛りとっぱらいが影響しているのか?
そうだとすると、昔ながらの衝動性のない特権的な虚構を
現代のデパートが取り戻すのは非常に難しいのかも知れない。