マイルド・ヤンキーに関する考察(たぶんその01)

 マイルド・ヤンキーの何のかの言われてるけど。

 

 ブルデュー Pierre Bourdieu の文化資本論をベースに考えたら、説明がつきやすいように思う。

 

 文化資本論をベースとしてマイルド・ヤンキーを定義できないだろうかと考えてみた。ここで一応の定義を与えてみる。マイルド・ヤンキーは、以下のふたつの要件を満たしている者ではないだろうか:

 

  1.  都市文化から疎外されている
  2.  生まれ育って現在居住している地域の伝統文化から疎外されている、またはその地域に伝統文化と呼べるようなモノがない

 

 これらを満たすのがマイルド・ヤンキーだとすれば、いろいろ言われているマイルド・ヤンキーがみせる言動やその思考回路といった現象の側面をほとんど説明できるように思う。

 

 そすと、現代のマイルド・ヤンキーというのは昭和末期のヤンキーをそのまま引き継いでいるようにも考えられる。つまりマイルド・ヤンキーの形成過程を昭和末期にまで遡って考察できるのではないかと考えられる。

 

 マイルド・ヤンキーは郊外型の大型ショッピング・センターが大好きだから、マイルド・ヤンキーをマーケティングのターゲットにすべし、なんて話も耳にする。しかしそれは本当にマーケティングなのだろうか。平成初期、極端に団塊ジュニア層へ集中したせいか現在は迷走気味の無印良品の轍を踏むことになりはしないだろうか。

 

 文化資本論ベースでマイルド・ヤンキーを考察したら、何かにつけ便利なように思われる。

 

追記

 

この記事を書いたすぐ後あちこち新聞社のウェブサイトを巡回してたら:

 

琳派ロック、今年も京都から発信 10月に平安神宮で祭り : 京都新聞

 

 YouTube の PV 見て

 

絶望

 

しましたですよ。はい。

 

 京都市のまん真ん中で、上記ふたつの要件を満たす人たちが、ブルデューの言う俗悪の極みを開陳するんだもんなあ。そりゃ生粋の京都人というもの実はごくごく少ないのだけど、それにしても京都には京都の一般市民の都市文化ってものが厳然として存在するのであって…

 たとえば京都市民の若い女性がバーでスクリュー・ドライバーを注文するというのは、自分がスクリュー・ドライバーごときで「いてこまされる」オンナではないという自己主張、サインなのである。そうした文化から疎外されている女性は、単に「おいしいから」という理由でスクリュー・ドライバーを注文する。若い女性のサケの注文においてすら、都市文化のインサイダーとアウトサイダーの間の絶望的な断絶があるのだ。