真の悪、あるいは、Z理論

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聖書の中で神は少なくとも200万人を殺しているが、悪魔が殺したのはせいぜい10人という話。

 

これも正統的なクリスチャンからすれば、解釈が強引で、そもそも神学が分かってないとの批判があるけど、こっちは日本の仏教徒だから、そんなの関係ねぇ。

 

私としては、それほどに「真の悪」というものが極めて少ないのだと解釈する。

 

Scott Peck という人が言った話。人間は時として悪というものが存在しないかのように思い込んで、性善説で動きがちだけれども、ゼロではなく、真の悪はごくごく少ないけれども、厳然として存在するのだという。

 

M. Scott Peck (1978), The Road Less Travelled (25th anniversary ed., 2003), Rider & Co, pp. 266-267. 

 

親鸞悪人正機説も、真の悪人を指しているようには思えない…だって阿弥陀様に救われる余地があるんだもの。

 

ざっくり親鸞の説を調べたけれども、五逆だの誹謗正法だの、あるいは十悪なんてのがある。でも誹謗正法はともかく、五逆・十悪は日常茶飯で、マスメディアの報道でも珍しくも何ともない。

 

けっきょく真の悪というのは、社会的な関わりの中で決定づけられるように思われる。Zという人物が社会の中でどうにもこうにもならない存在で、宗教でも心理学でも精神医学でも法律でも手に負えない…こういう場合、Zは真の悪人ということになるだろう。

 

誹謗正法も、おそらく社会的な関わりの中で正しい/正しくないが決まるんだと思う。織田信長の時代に「安土宗論」という事件があって…安土城下で浄土宗の僧侶が辻説法してるところに法華宗の人がケンカ吹っかけた。信長としては穏便に済ませるよう申し渡した(信長自身は無神仏論者で、表向きは法華。家臣に法華が多い)けれども、法華は引っ込まず、仕方がないから公開討論会。結果は法華の負けで、ケンカ吹っかけた2人は斬首。これ浄土が負けてたとしたら、信長は浄土側のクビを切ってたと思う。

 

「度(ど)しがたい」という言葉があるけれども、これは仏教語で、仏様が救おうにも救いようがないという意味だ。宗教が救済のすべてだった時代はすでに遠く、社会や自然科学とのミックスで救済する時代だけれども、それらすべての観点から度しがたい人間は、極めて少ないけれども、確かに存在する。

 

こういう場合は、ありとあらゆる理論と手段を用いて社会から排除しなければならない。

 

Douglas McGregor が人間の動機づけでX理論 vs Y理論なんて言ったけれども、X理論でもY理論でもどうにもならない真の悪人については、これを徹底的に排除しなければなるまい。あえて言えばZ理論ということになろうか。